北谷町の自然・歴史・文化
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歴史の移り変わり間切の村と役人から続く古い間切で、現在の北谷町は、近世には北谷間切ど呼ばれていました。年代「五絵ぇO③図でO平へ郷i(安ん村Z明(山i帳;応安あー九仁に④ど)屋やす、、)なう一六四九今の嘉手納町も含む大きな間切でした。⑤慶里子の安国11二⑥年賀かご手てろ車内むの資料は⑦① 屋ゃ北郎h谷J¥ (砂辺)(嘉手納)の九つの村があったど‘記されています。その後、へ、⑦安仁屋村は一六七一年に宜野湾問切に移されまLた。七城ZE'"徳伝;三道~.'-./ 村年)の③屋②山良〈内)わ村③、、は山?(越こ内L桑来?江間1⑦)-t}J~あ'" な(今の沖縄市)=弓琉球国由伊、杢ヰL~と浜11?川ZL野町日里'J.のピるど五、ーコの村が増え北谷間切にはのf)⑦の村の他に、全部て一二どなリました。この時にど玉代勢、決まった北谷の村は、この後、明治・大正時代になるまでズlッピ同じでした。次に間切や村の役場、そこに勤めていた人たちの話に移りましょう。間七刀三ヒlこ谷は問今t刀のの役番日場所〔lこはあたる間切番所があリました。④北ヰLi番谷改t所村方立にに、1は置⑤、か耕i①れ作{番三て当2毎1、、方!i方lfまヲ、し⑥②た山工蔵LO 当f当f方11方?⑦③ 横{砂E自由糖f方li当fな方Ilどの係がありました。①番毎方は、首里から連絡や命令を受けたり、番所全体の役人のこどな?1W ロ》-hF戸ロロロ4・←4-48 絵図郷村帳:・一七世紀の中頃にまとめられたと考えられる資料。もともとは江戸幕府が各藩に命じて作らせた国絵図(各藩の地図)と対になる帳簿で、間切や島ごとに石高や村名が記されていたと思われますが、現在は村名を記した写本だけが残っています。-一七一一一年、首里王府琉球国由来記が王府の諸儀式や行事、役人の官職、名村の行事や御嶺などについて、その始まりゃ歴史などを語査してまとめた本。沖縄の昔のことを知る上で百科事典のような記録です。間切当時の各字界}叫

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