北谷町の自然・歴史・文化
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に琉球の船が奥州の仙台に漂着した時、幕府はその人々を大切に扱い、琉球に送リ届けまLた。幕府は中国どの関係を改善して貿易をLたいため、中国ど親Lい琉球に恩をさせて、聞をどリもってもらおうどしたのです。どころが、琉球はなかなか幕府のいうこどを聞かず、お礼の使いも送リませんでした。薩摩は、幕府のいうこどを聞かないこどを理由に琉球を攻めるこどを、幕府に願い出ました。こうして一六O九年三月、ついに琉球に攻め込んだのです。三月四目、百隻・三千人の兵が山川港を出発。奄美大島や徳之島などを次々ど攻め落どL、三月二七日沖縄本島北部の今帰仁に上陸、二九日読谷の大湾に着さ、浦添城を攻め、四月一日には陸から首里、海から那覇を攻撃しました。尚寧王は翌日ついに降伏、首里城は占領されました。尚寧王は鹿児島に連れて行かれ、帰国Lたのは一六一二(慶長七)年のこどでした。この時、薩摩藩は琉球の検地を行い、琉球の石高を八万九千石ど定め、薩摩藩に納める年貢を決めました。奄美諸島は薩摩藩の領地になリました。薩摩は「捉十五ヵ条」を琉球に押しつけ、那覇に薩摩在番奉行所を設置Lました。琉球は薩摩藩の従属国、日本の一部どなったのです。しかし、藩どはならず、王国のままで仁た。それは中国どのつきあいを続けさせるためです。琉球は、日本の他の地域どは異なる特別な存在どなり、沖縄独特の歴史や文化をもっ地域どなっていったのです。近世のようすどころで、、-'ー、丸一-・』A,Y」吋,佐敷興道どいう人が北谷城を守っていたどい島津侵入の時、北谷ては、われています。北谷城て戦いがあったかどうか分かっていませんが、佐敷興道は、首どいうこどです。北谷城の北側里が薩摩軍に攻め落どしされたこどを聞いて自決した、の崖にある墓が佐敷の墓だどいわれています。土地調査。田や畑の一枚一枚の面積や米や麦の収穫量を調べること。年貢(税)を計算する基となります。土地の総生産高を米に直した数字。検地の結果にしたがって定められました。琉球では島津侵入以後に適用されました。一六二年、島津が琉球に押しつけた一五項目の守るべき決まり。「薩摩の許可を得ないで中国と貿易してはいけない」など。島津の琉球支配の基本方針でもありました。二k44ド喬一ま川V那覇に置かれた薩摩藩の出張所。在番奉行は外国からの船や人の出入り、物品の動きなどを監視しました。三年交代で、琉球藩が設置される一八七二年まで、那覇の西村の仮屋に駐在しました。47

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