北谷町の自然・歴史・文化
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46 歴史の移り変わり島津侵入と北谷L1づL一六O九年、薩摩藩の島津氏が琉球王国に攻め込んできました(島津侵入)。琉球いろいろな命令を受けるこどになリました。琉球はこれまでの独立した王国から、江戸幕府や薩摩藩の命令に従う従属国どなったのです。王国は戦いに負けて薩摩藩の家来どされ、どころで、島津氏はどうして沖縄に攻めてきたの、でしょうか。島津氏は、鎌倉時代記討すみひゅうがの薩摩・大隅(今の鹿児島県)・日向(今の宮崎県の南部)を治める守護(鎌倉・室町時代に国ごどに置かれた役職の一つ)でした。戦国時代には強力な戦国大名に成長(天正一五)年、天下統一一六OO(慶長五)年の関ケ原の戦いては、豊臣方について徳川方ど戦って敗れましたが、領地は取リ上げられずに許されまLた。その薩摩藩の島津氏ど琉球王国は、聞に海が広がっているどはいえ、隣国どうしてし、九州第一の大名どなっていました。Lかし、一五八七を進めていた豊臣秀吉に敗北、す。室町時代から、お祝いごどの時などお互いに使者を送ったりLていまLた。どころが、島津氏が強力になるにつれて、琉球王国に対Lていろいろど文句をつけるようぷんι〈けいちょうえきになリまLた。特に、豊臣秀吉が朝鮮に攻め込んだ時(文禄・慶長の役)、秀吉は全国の大名に兵や食料を出すように命じ、琉球にも薩摩藩を通じて兵や食料を要求してきました。琉球は古くから中国や朝鮮どつきあっていましたので、協力するわけにはいきません。しかL、秀吉に逆らうこどもできず、要求の半分だけを出Lました。その後薩摩は、残リの半分を代わりに出したど琉球に恩をきせまLた。また一六O二年

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