北谷町の自然・歴史・文化
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鉢の四種を主体どしますが、わずかに、高炉や杯などがみられます。中でも碗ど皿が日常の食器どして使用されていたこどがわかります。また高炉などが発見されているこどから見て、グスク内の拝所において祭杷が取り行われたこどが想像で最も多く、きます。7、ゅうてんも(らやわん茶器どLて黒粕を施Lた天目茶碗も出土しています。この製品は琉球王国ど深い関けんようわリのあった中国福建省の建窯で焼かれたものです。天目茶碗が数多く出土しており、北谷城の按司たちが、お茶を噌む習慣があったど考えられ、お茶会が催されたのではないかど想像されます。このように一五世紀に繁栄した北谷城がどのようにして滅びたのか、その原因をかるための記録はありませんので定かではあリません。出土遺物などからみて一回世紀終末ごろに本格的な築城がな、されて、一五世紀に繁栄期を迎え一五世紀の終末から一六世紀の初め頃には廃城になったど考えられます。北谷城北側の白比川を挟んで相対する位置に、現在の国道五八号道路を跨ぐ形で、池グスクがありまLた。東西に三O灯前後、標高一七灯の小丘をなLていましたが、国道工事によって破壊されてしまい現存Lません。北谷城どの位置関係や規模から考、えて、北谷城の見張リ所であったど考えられます。ゲスク・古琉球の時代北谷城の前面の南側一帯からは、グスク時代初めから終戦直前までの長期にわたって、いくつかの集落が城下町どLて栄えていたこどがわかっています。グスク時代の遺跡どLては、これらの他に砂辺のクマヤl洞穴遺跡があリ、グスク時代の土器や中国産の焼き物が出土しています。海軍病院西側の国道の北側に位置する伊礼原B遺跡からは、一回世から近世までの中国や本土の焼き物などが出土します。39

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