北谷町の自然・歴史・文化
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しの貝殻が拡がっているようすが見られ、所に落ち着いたようすはなく、すこしづっ移動していたようてす。砂地一面に食べ残住居祉にも変化がみられ、て、点々ど遺跡があるこどが知られています。北の嘉手納町から読谷村の残波岬あたリまさ六υ川、幅四灯ど、伊江島のナガラ原西貝塚、ては、砂地をならすだけで、長へいらし5じゅう54これまでにない大きさの長方形の平地式住居を作っているのが発見されています。後期If--)E期の弥生時代相当期ては、沖縄諸島て採れるゴホウラどいう貝が、交易ロ叩どして北九州(福岡平野)地方の弥生人に重宝されたこどです。メ七九州ては男性の右腕に五(}一O個もはめたようて、墓の中から多数発見されています。このような人は、利き手てある右手を使わなくても生活できる、族長クラスであろうど考えられています。Lかし、多量のゴホウラ貝が持ち出されたのに対Lて、その見返りが何であったのか明確な答えはまだ出ていま貝塚時代せん。また、ゴホウラ貝どいう名前すら私たちは知らないのです。やや新しくなるど、この海岸砂地の/ (左から右へ)貝輪の製作過程平地式住居平坦な地面に柱を立て、草で覆って家とする住み方。31

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