北谷町の自然・歴史・文化
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内の九か村(字)でした。一六六O年ごろに美里間切から越来間切が分離したどさに山内村が越来間切に移リまLた。一六七一年に宜野湾問切が新しくてきたどき、安仁屋村が宜野湾問切に移リ、北谷間切は七か村どなリました。その後一七一四年ごろまでに、伝道、玉代勢、伊礼、浜川、野里の五か所の村が新Lくできて、北谷間切は一一一か村どなリました。一九O八(明治四二年の町村制移行て今までの間切が村に、村、が字に変わりましたが、字の変動はあリませんでした。しかし、廃藩置県後あちこちに「屋取(やどり)」どいう集落ができ北前、玉上、謝苅、桃原、桑江ヌ前、昭和通り、桑江ヌ後、上勢頭、久得、東、伊金堂、嘉前どいう地籍下勢頭、国直、千原、兼久、嘉手納通リ、水釜、を伴わない行政字が昭和の前期までにてきて、従来の一二か字ど合わせて三Oか字どなリました。米国統治下の行政区一九四七(昭和二二)年二月の北谷村発足どほどんど同時に桃原、謝苅、嘉手納の三行政区が設置されました。一九四八年四月には北前、北谷の一部地域に居住が許されて北谷区が設置されました。しかし、米軍からの立ち退き命令で翌年六月に北谷区行政区のようすはなくなりまLた。一九四八年から村内の移住地域が広げられて村氏も増え、行政区も桃原地域に一区、二区、三区の三行政区、謝苅地域に一区、ニ区、三区、四区ど四行政区が設置されました。しかし、一九五六年に桃原ニ区が越来村に編入されて北谷村の行政区から離れ戦前の行政字,--._-ー¥¥コι.ース.¥ ¥υ'..r ¥¥¥.¥¥.¥ 宇久J4; 』、.--¥ー,、,司、誌生与:u 『ξ=平~J 4'Jt.ooo 241

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