北谷町の自然・歴史・文化
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しかし、一九二八年以降一九三二年までの四年間はニ・四十七に下がっています。この時期はソテツ地獄どいわれた経済不況の時代で、沖縄県の人口も減少していますが、北谷村の減少も大きかったこどが示、されています。特に一九二五四)年(大正一には前年よリ一、七八四人、八・八uhも減少していて人口の流失が大きかったこど一九三O年の北谷村の一五オから五九才までの働き手がわかリます。この不況時代、人口の割合は一O年前の五五γHから五ニずいど低くなっていて働き手の流失が大きかったこどがわかリます。沖縄県が移民県であるこどは、一九三五年の移民者が四一一、六六九人であったこどて明らかですが、北谷村の同年度の移民の数も当時の村人口の七・一かれに相当する、一二O人どなっています(くわしいこどは「近代のようす」六三頁を参照してください)0北谷村からの移民先は、ブラジルなどのフィリンビン、ハワイ、ペルl、国々でLた。北谷村の特徴の一つは、屋取集落が多くて村人口の四八かわが士族で占められていたこどで廃藩置県後の首里からの流入が多かったこどです(『北谷町史』別巻近代資料より)0戦後の人口戦後の人口は戦後の北谷町の人口の変動を示しています。一九四六年の人口は、久ロ人口の変化地の避難地からの先遣隊員で、男六七八人、女四O人の合計七一八人です。一九四七年一月に謝苅の一部に移住が許可され、同年一二月には栄ロ原、宇ヮ久〈そ殿Zの原lj後謝苅の一部に移住許可が出て村氏の移住者が多くなリ、一九五O年の国勢南洋興発製糖工場全景223

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