北谷町の自然・歴史・文化
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兵事関係の仕事ど国民の生活物資の統制、配給、生産促進などが主な仕事どなっていました。戦後の行政の移り変わり米国軍政下で県民は、各地の収容所に集められて通行制限、夜間外出禁止など米軍のきびしい監視下てたいへん不自由な生活をしてきました。一九四五年一O月になってようやく戦前住んでいた土地に移動が許され、翌年四月までに一応の移動がおわリ北谷村は村のほとんどが米軍基地どなっていたために移動は許されらねんませんでした。一九四五年九月、軍政府は地方行政緊急措置要綱を公布して、知念、1えはらこざけしかわかん官EのさこにやいhHヲ句さ5せだけたいらへんど官あ〈に前原、胡差、石川、漢那、宜野座、古仁屋、大浦崎、瀬嵩、白井等、辺土名、粟国、へやへんざ〈めどZけらZ伊平屋、平安座、久米島、慶良聞の一六市て市会議員選挙まLた。Lかし、(九月二O日)市長選挙(九月二五日)を実施しました。選挙権および被選挙権は満二O歳以上の男女に与えられまLた。一九四六年四月一日に軍政府は、市町村の行政を整えるために、戦前の市町村長を新市町村長に知事から任命させ、新市町村長の諮問機関どして戦前の議員行政の移り変わりが村政委員に任命されました。あらか5みのる北谷村長には、戦前の新垣実村長が任命されまLたが、北谷村はまだ移住が許可さかーらかリや〈Lよれていなかったため、越来村(沖縄市)嘉間良に北谷村の仮役所を置いて北谷村へのいqみねせいL・4う新垣村長辞任後に任命された稲嶺盛昌村長も、移動促進を進めました。せんけんたい先遣隊を集めて村民の受け入れ準備をすすめ、各地から一九四六年一O月二一一日に上勢頭、桃原、越来村山内の一部にようやく移動が許されまLた。翌年二月五日、稲嶺村長は嘉大毛にあった先遣隊宿舎(昭和22年)新垣実二八九一1-九八三):字北谷出身。一九四四(昭和一九)年七月に村長に就任。戦時体制下、村民の避難地である羽地村に北谷村役場分所を設置し、職員二人で村民の受け入れにあたらせました。一九四六年四月一日に米軍政府から初代村長に任命され、嘉閏良の収容所の仮役所で帰村に尽力をつくしましたが、かなわす同年七月に村長を辞任。その後、村会議員を四期つとめました。217

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