北谷町の自然・歴史・文化
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ました。沖縄県の地方制度が全固なみになったのは、沖縄県どなってから四一年目の政治の移り変わり一九二O(大正九)年てす。戦時下の日本一九三一ーんLゅヲじへんじゅうごねんせんモヲ年の満州事変では仁まった一五年戦争は、一九三七年の日中戦(昭和六)争どなって中国大陸全土に広がリ、一九四一年一二月八日には太平洋戦争へど広がっていきました。この長期の戦争も、沖縄の悲惨極まる地上戦、八月六日、八月九日の広島、長崎への米軍の原子爆弾投下て一九四五年八月一五日の日本の無条件降伏どなって終わリました。戦時中の日本は、若い男は戦場に送リだされて、国内の生産力はおどろえ、外国からの物資の輸入はどざされ、国内はたいへんな物不足どなリました。bモヲピヲいんほう政府は国家総動員法どいう法律をつくって国民の行動ど生活物資を管理統制して、戦時体制を強化したので国民の生活はたいへん苦しくなリました。戦場となった沖縄日本軍がサイパン島て全滅して日本の敗戦が決定的どなった一九四四年七月、日本政府は日本本土防衛のためどいうこどで沖縄決戦を閣議決定し、七月七日には沖縄県の年寄リ、婦人、児童一O万人を県外へ疎開させるよう沖縄県知事に指示しました。この指示に基いて、八月一二日には学童八OO名を含む一七OO名を乗せたそかいせんつL11る品〈せさべいせんすいかん疎開船対馬丸、が本土に向かって航行中トカラ列島の悪石島付近の海、て、米潜水艦の攻210 国家総動員法:日中戦争のもとで、三八(昭和一三)年に制定された全国的な物価労務などについて統制した法律。九

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