北谷町の自然・歴史・文化
238/290

政治の移り変わり沖縄県の政治の移り変わり王朝時代の沖縄の政治むかし、琉球国ど呼ばれていた一O世紀ごろから一五世紀まての沖縄は、各地域にゐじ按司がいて領地内の村々(宇)を支配していました。按司たちは、武力て争いをくリ中3返山1l 強い按司が弱い按司を亡ぼして領地を広げていきました。ヲらを之ゐじFふんさんHH5ピみじは〈さん55仁ん品じ(浦添按司)、南山(大里按司)、北山(今帰仁按司)一四世紀後半には、の三つの勢力が沖縄本島にてさまLた。(、氷享元)年には尚巴志(第一尚氏)が三山を滅ぼして、一つあ3わリ(長禄二)年に起こった「阿摩和利一回二九の琉球王国を築きあげました。しかし、句んの乱」一四五八に見られるように、王政はかならずしも安定していませんでした。王政の安定確立L??Lん、わう一五世紀の半ば以降、尚真王が王位についた五O年の聞に身分制度、神官組織(女官制度)、武器の王府管理、地方按司の首里移住など政治のしくみも整い権力が中央に集められました。その結果、はじめて王府は安定するようになリました。尚真王時せっせい国王の補佐役どして摂政をおいて王の代の王府のしくみは、図ーに示、されるように、さんしかん政治の相談役にし、三人の三司官が責任者どなって政治を行いました。もうL{らさものぷ52・7L4は、申口座ど物奉行所どいう役所を設け、三司官の下にその下に仕事別に事務局をいわいて政治の仕206 首里城正殿と南殿摂政・首里主府の最高職で、国王の相談役にあたりました。日本の関白に似ていますが、重要な政策などは三司官らが決め、あまり政治的な力はありませんでした

元のページ  ../index.html#238

このブックを見る