北谷町の自然・歴史・文化
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-Lた。同年三月二二日付けて校長、教頭、他二名の女教員が任命され、元北玉区の居住地ど決められた謝苅地区内に設立するこどになリました。同地区内は山間地帯、が多く、校地に過している場所がなく、校地の選定には苦労Lました。一九四七年四月一九日に、区長宅を仮事務所どして児童を受け付け、先遣隊数名ど上級の児童及び職員て現校地に仮校舎を建て、五月一日に開校式を行い、戦後の北玉初等学校、が誕生しまLた。一九四七年六月四目、北玉幼稚園の開園式を行いました。ω北谷中等学校の設立八・四制から六・三・三制に改定されたのは、一九四八年四月で、この年に北谷中等学校が設立されまLた。北谷中等学校は、一九四八年四月一目、桃原診療所跡(今の北谷町字吉原五一四番地)に開校し、同年五月一八日に現在の敷地(校舎移転をするまで米軍の野球場どして利用されていた)に移転しました。同年四月に、屋良中等学校(嘉手納中学校の前身)も屋良初等学校敷地内に併設されまLた。同学校給食の開始と共同調理場の設立一九六七年一一月六日、北玉小学校敷地内に共同調理場が建設され、二小学校一中戦後のようす学校に学校給食が開始されました。その後、ニ小学校一中学校が新設され、従来の共向調理場では対応できなくなり、一九七九年三月ご二日に新設の共同調理場が、メじ少えp 町字桑江五六六番地に建設されました。この新設の調理場は、調理能力一日最高五、000食まで対応するこどができ、学校給食は充実するこどになリました。-‘・h、........ ¥や覗j北玉小学校の運動会と瓦主主校舎(昭和27年ごろ)203

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