北谷町の自然・歴史・文化
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教育の移り変わり小・中学校の移り変わり川北谷初等学校・幼稚園の設立北谷村内に移住許可が許されたのは、終戦から一年余を経過した、月のこどでした。この頃の北谷村氏は、宜野座や石川、前原、胡差などの収容所内て一九四六年一O生活をしていました。児童生徒は、収容所内、て出身地ごど、開設された学校て勉強をしていました。一九四七年、北谷初等学校が開校され、四月二八日から授業が始まリました。当時は、市町村自体に税収がなく、物資の販売利益を、行政費に充てている状態てあリ、沖縄民政府にも教育関係予算があリませんでした。校舎は、軍物資を貰い受け、父兄や生徒たちの奉仕作業によって作られました。教員の給料は、米軍の負担で支給され、教科書の一部は、文教部て印刷したものが各学校に配布されました。多くの学校ては、ガリ板印刷をした教科書を使用していまLた。一九五二年四月一目、北谷小学校に校名が改称され現在にい北谷初等学校は、たっています。一九四七年月九月、北谷初等学校附属幼稚園が設立され、一九五二年七月四日には、北谷幼稚園が公立どLて認可されました。(2) 北玉初等学校・幼稚園の設立一九四七年二月一五日、民政府指令第一五号によって北玉初等学校設立が認可され202 1950 (昭和25)年の北谷初等学校北ハ〈ロ初等学校・・・戦前の校区と戦後の校区に蛮更か生じているのは九三副ンいいが軍用地であったためである。特に、北谷初等学校が沖縄市の地域内にあることは全国的に例のないことである。北玉初等学校・・山間地帯の謝苅に初等学校を設立することになったのも九三副ン判が軍用地であったからである。

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