北谷町の自然・歴史・文化
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て授業が行われました。一年生から二年生は午前中の授業、三年生から六年生までが教育の移り変わり五時間授業、高等科は五()六時間の授業ど農業実習が行われまLた。六年生まてが義務教育制度でした。その当時の児童生徒は、いもの弁当、ほどんどはだして洋服を着用する者はわずかてした。また、児童生徒全員に、年に一()二回「ナチョ1ラ(海人草)」を煎じて、お碗の一杯ずつ飲ませて回虫駆除をしました。鉛筆一本を大切にし、短くなれば竹に突っ込んで使いました。ノート類も、字の学事奨励会などてもらった物を大切に使っていました。沖縄戦と教育司、1みんわり54うい〈明治以来、沖縄県の教育は、皇民化教育を進めるこどでした。標準語励行そのために、学校教育だけではなく、社会教育てもいろいろな方法て、皇民化教育が実施されました。その一つに「方言禁止」「標準語励行運動」があリました。一九三六年に、県下校長会議て「標準語励行期成会」を作るこどが答申されました。それによって、各市町村にも支部が置かれ学校職員、役場吏員、区長、警官、青年団幹部を標準語励行指導員に任命L1Lた。学校では、一九四O年頃から方、一=ロ札が作られ、方、一-一ロを使うど方言札を渡され、首につるされました。また、学校ては「標準語励行」どいう張リ紙が、校舎や校庭に張られていました。196 皇民化教育・・日本の人民は、身も心もすべて自分のものではなく天皇や国家のものであるという考え方。方言札:・板で札を作って首にかけるようになっていた。学校によって形は違っていた

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