北谷町の自然・歴史・文化
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4 北玉尋常高等小学校の設立教育の移り変わり北玉尋常高等小学校の前身は、一九O二年六月に北谷ど野国の二校が合併して平安山ヌょに開校した北谷尋常高等小学校の北谷分教場です。その北谷分教場の前身は、字北谷にあった北谷間切番所内に設立された北谷(間切)小学校(後の北谷尋常小学校)にあたリます。北谷分教場ては低学年を対象どした教育が行われまLた。ここでも、先に見たように独立した小学校を設立しょうどいう気運が高まリまLた。一九一回(大正三)年四月に北玉尋常小学校(六学級、男一九一人・女一五三人の計三四白人)どして開校しまLた。それでも、Lばらくの聞は高等科の北谷分教場は、生徒は北谷尋常高等小学校まで通わなければならなくなリ不便、てLたが、ようやく一九一七年に高等科を設けて北玉尋常高等小学校どなりまLた。どころで、北玉どいう校名は、北川八口ど玉代勢の両字の頭文字をどってつけたものてす。5 県立第二中学校と県立農林学校大正時代、嘉手納て同じ敷地内に県立第二中学校(ニ中)のうリんど県立農林学校(農林学校)が設置されるどいう異常な状態が起こリ1Lた。二中は、一九一O(明治四三)年四月に県立第一中学校の分校どLて首里城内に開校されましたが、翌年四月にニ中どして独立し、一九一二年四月には嘉手納に新築移転しました。Lかし、一九一五(大正四)年には途中て学校を辞める生徒が続出したこどや、入学を希望する生徒が極端に少なくなったこどから二中を廃止する動きが出ましたが、校長の辞任や反対集192 戦前の北王国民学校(昭和16年ごろ)沖縄県立第二中学校

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