北谷町の自然・歴史・文化
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ます。石細工は、墓・屋敷造リにその技が生かされ、す。鍛冶細工は、おもに宮古・今帰仁村にある零細な鉄工場の職人に引き継がれていいまも勝連町・与那城町、そし産業の移り変わりて、私たちの北谷町にもその技術保持者がおリ、職業どしています。北谷町の伝統産業伝統工芸私たちの北谷町ての細工職の種類どして、いまも伝統産業・伝統工芸に位置づけられ、受け継がれてきたものは数少ないです。木竹細工、皮・藁細工、石細工のみです。石細工、鍛冶細一九O三(明治三六)年に日本本土から技術工、織物のなかで、現在も職業どLて継承されるのは木竹細工、導入され産業化され、農家の収入のよい副業ピして栄えたパナマ帽子(アダン葉帽子どもいう)製造は、北谷町にかぎらず沖縄一円て生産されていまLた。しかし、いまは地織機による織物類・砂糖樽製造ど同じように、需要がなく衰退してしまいました。戦前まで北谷町にも鍛冶細工がいました。その技術の確かさで近隣町村の人々に知られ、まも歌謡や沖縄芝居のなかで生きている桑江村(今は桑江区)の鍛冶細工職人ですが、戦後後継者がなくその職も途絶えてしまいました。桑L、竹細工製作のようす184 パナマ帽子;一九O三(明治三六)年、廿たやまとくじるう寄留商人の片山徳次郎がアタン葉を原材料に帽子製造場を設立。これを契機に県下一円の農家で婦女子を中心とする副業として栄えました。当初はアタン葉、後にパナマ草を材料とする帽子、さらに蹴よりほうし撚帽子に蛮化しました。全盛期の一九二年には、その生産高・県外輸出高が砂糖、泡盛に次ぐものとなり、りての景気は大正中頃までも続きました。

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