北谷町の自然・歴史・文化
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産業の移り変わり工業商商業のようす① 商庖戦前の北谷ては、日常の食事(芋・米・豚肉・野菜・味噌など)は自給自足が普通でしたが、自ら生産できないものは各字の商庖て購入しました。商庖は「マチヤ」または「マチヤグヮl」ど呼ばれていました。「マチヤグヮ1」は小さな商庖の、」どをさLますが、「一銭マチヤグヮl」どもいわれ、久ロ字にある商庖のほどんどはこれにあたリます。軽便鉄道の駅がある北谷・桑江・平安山などには、「マチヤ」が二(J三軒、「マチヤグヮ1」が一O軒前後あリました。商庖はニOf--J三O坪ぐらいの大きさて、桑江ど平安山には二階建ての庖もあリまLた。これらの商届て取リ扱う品物は、米・メリケン粉・モうめん・醤油・砂糖・塩・油・正月やお盆用の晴れ着や履き物、帽子などは那覇て買い求めるのが普通でした。また、庖の商品は那覇から馬車や軽便鉄道などを利用して仕缶詰などが主なものでした。入れていました。② イ丁商戦前、北谷には多くの行商人がやってきました。彼らは山海の品物、薬、こーものー、田け'wd、/日H斗寸竹製品などを売リ歩きました。北谷に来た代表的な行商を次に紹介します。ゐわせav塩売リ(マlスウヤl)::・・中部の塩の産地である泡瀬(沖縄市)からやって来て170 マチヤ|ゲワ|(右手前)行商風景

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