北谷町の自然・歴史・文化
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貨、農産物、林産物などを移入していました。また、近くに山があったこどから、船三一ゅうよヲかの修理を行っていたこどが首里王府の『球陽』や久ロ「家譜」などの中に散見されます。一八四O年に北谷沖に漂着した、英国船インディアン・オlク号を解体して新しい船また一九二二を建造した場所です(詳しいこどは「近世のようす」に、記されています)0比謝港も(大正一二)年の軽便鉄道の開通て、その役割を終えまLた。近代の交通開通、て、北谷の交通は、一九二二年の軽便鉄道嘉手納線〔「中部の経済の中心地」を参照Lてください。〕それまての海上交通から陸上交通に移っていきます。(にがみかいピう明治末期に行われた国頭街道の改修工事、て、県通ヲセx 道が整備されるど、首里・那覇から北谷・普天間の聞の人力車の往復が頻繁になります。それでも、北谷で人力車を使うのは医者や金持ちなどに限ら車れていました。(明治四三)年八月末に一九一O力は、嘉手納に一九O台の人力車、がありました。こ人の人力車も、客馬車の登場で徐徐に減少Lていきます。北谷に客馬車、が走るようになったのは、明治四0年代に入ってからのこどです。明治の末、客馬車には「北谷組」(那覇から北谷を往復)「読谷組」(那覇から読谷を往復)があって、激し工産物・:加工した生産物のこと。たとえば、黒糖・パナマ帽・醤油・茶・酒類・文異・履物・石油などです。球陽・・・沖縄の開聞神話から近代初めの尚泰王代まで、沖縄で起きた色々な事件や事物などを記した摩史書のこと。の国頭街道・那覇|嘉手納|名護|羽地l今帰仁にいたる街道で、一九一五(大正囚)年に完成しました。那覇羽地の間は現在の国道五八号とほぼ同じです。ど167

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