北谷町の自然・歴史・文化
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をする作業場に集まります。作業場どいっても、普通の民家を利用したものでパナマ帽を編んで業者に納めました。そこは、若い女性たちの唯一の情報交換の場所でもあリまLた。そこでは個人的な悩み事から、女性特有な身体的問題、男女の交際方法、村落内で起こっている事柄、他の村落の事、など多くのこどが話し合われます。「帽子編み」の作業を終えるど、まっすぐ家に帰る場合ど友達ど一緒にモlアシビ(毛遊び)に行くこどもあリました。男たちは夕飯を終えるど、翌日の農作業のために農具の手入れを行いました。それがすみますど、仲間ど連れ立ってモ1アシビにでかけます。モアシビの場所どLて、村落から離れた広場や海岸、墓地などがよく利用されました。北谷町ては、国道五八号に架かっている白比橋北側ど謝苅入口の問の丘陵にあった北谷トンネル付近がモーアシビの盛んに行われた場所どLてかられています。モアシビは、二O人から三O人ぐらいで行われるのが一般的でしたが、時には五O人から六O人程の若い青年男女が頬かむりをして集まリ、三味線に合わせて歌い踊リ深夜まで遊びまLた。これどいった娯楽のない農村の若者たちにどって、モーアシビは唯一の男女交際の場であったし、楽しみの場、でもあったわけです。そこで知リ逢い、結婚までいくケースもあったどいいます。当時の若者たちは、深夜におよぶモ1アシビて三時間から四時間ぐらいの睡眠時間Lか取らなかったので、なかには農作業中に居眠りする者もいたようです。それでも夜になって三味線の音が何処からどもなく聞こえてくるど、居たたまれずに外へ飛び業農出していきました。帽子編み・・・知り合いの家に女性が集まって、副業としてパナマ帽を編む夜なべ仕事。北〈〈ロトン才ル・:一九O五(明治三八)年の県道開通の時に、藁江と伝道の間にある白比川の北側沿いの丘陵を掘り抜いて造った、沖縄で最初のトンネルです。トンネルは、馬車一台が通れるくらいの広さで、長さが一八〕川の筒抜け状になっていました。風が吹き抜け一年中涼しく、雨宿りにも最適だったそうです。沖縄戦直前に軍事物資運搬の支障になるとして、日本軍の手で取り壊されました。y ビ、ンアモV晶155

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