北谷町の自然・歴史・文化
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る方針を決めた、」どによるものです。一九四九年には、それまで沖縄・宮古・八重山・奄美の米軍政府をまどめて、北谷村のキャンプ桑江に「琉球軍政府本部」を設置します。それど同時に、キャンプ桑江に陸軍病院(Aフの海軍病院)や軍人家族用宿舎などを、キャンプ瑞慶覧にモータープール(軍用自動車隊)や兵舎・映画館・体育館・図書館などを建設して、長期間の基地使用に備えまLた。この米国支配の長期化が予測-される中ても、徐々に村氏は生活のリズムを取り戻していきました。町の面積に占める軍用地の比率を『北谷村勢要覧』『北谷町勢要覧』からみてみますど、一九五二年五・二六がわ、一九五八年七三・五八Uh、一九八二年には五七・二一ニγ川、(平成四)年に五六・七がわはノノ・七一ーかわ、日本に復帰した一九七二年当時て六一九九ニピ徐徐に減少していますが、それでも北谷町の約六Oかわを占めていて、町の発展に大きな障害どなっているのです。そのような悪条件のもどで、北谷町は町の活性化のために一九九O年にハンビl飛行場(一九八一年返還)の跡地を整理して大型庖舗を導入しました。その後、衣料品庖やスポーツ専門庖、ファーストフ1ド・レストランなど、各種専門庖が出庖し、大さな商業地帯を形成しています。一方では、美浜埋立地に陸上競技場・野球場・ビlチ・プlル・テニスコートなどの運動施設を造リ、町民の健康増進やスポーツ振興に大いに役立っています。さらに、それらに隣接して、リゾートホテルや遊園地・多彩な庖舗などを誘致する計画が進行中です。土地利用私たちの北谷町は、「自然ど調和した安全で快適なまちづくリ」を土地利用の基本どして、米軍基地のない平和で豊かな町の建設を目指しているのです。琉球軍政府本部・:琉球軍司令部(ライ力ム)のこと、現在、指令部跡には碑文があり、「一九四九年一O月四日琉球列島指令部軍政府及び沖縄地区技術本部は最高計画に従って沖縄の復興をととのえるために此の地に総合指令部を設置した」(裏面)と、表は英文で記されています。キャンy桑江:・桑江、伊平、吉原、浜川の四つの字にまたがる米軍基地の名称で、総面積は約一O八一わけル。基地内には、病院、兵舎、住宅、エックスチェンジ本部、野球場、テニスコートなどの施設があります。キャンプ端居覧・北谷、北前、玉上、大村などの字に宜野湾市の一部地域にまたがる広大な米軍基地の名称で、総面積は、約六五一わけル。基地内には、指令部事務所、学校、兵舎、住宅、体育館、劇場、ボーリング場、消防署、放送局、射撃場などの施設があります。ハンビ|飛行場:アメリカ海兵隊の攻撃用ヘリコプターの墓地。北前と北谷の二字の海岸線にあって、ヘリの離着陸訓練に使われていました。一九八一(昭和五六)年一一一月に返還され、部隊は普天間飛行場に移りました。153

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