北谷町の自然・歴史・文化
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産業の移り変わり戦後の土地利用一九四五(昭和二O)年四月一目、読谷村から北谷村にかけて上陸した米軍によって、北谷村全域は占領されまLた。その後も米軍による北谷の占拠が続き、住民の願いである帰村はなかなか許可されませんでLた。それは軍事的に重要な嘉手納飛行場が村内にあったこどによリます。北谷村への住民移動が許可されたのは、敗戦から一年も過ぎた一九四六年一O月二二日のこどでした。それも、上勢頭ど桃原の中の一部ど非常に限られた地域でしかなかったのです。その後、次第に住民移動許可地が決まっていきまLたが、やはリ地域一九四七年二月には桃原区、謝苅区、嘉手納区の三つの行政区が設置され、翌年までに村民の約七Oかわが帰村Lています。しかL、桃原区ど謝苅区は、狭小な山間部に位置していますので、宅地どしては最悪な立地条件の場所です。さゐてんばる北前の佐阿天原から北谷三叉路までの軍道一号線(今のは限られていました。ところで、一九四八年三月、国道五八号)沿いの一部地域に居住許可がおリて、「北谷区(九七世帯、三九三人)」が発足され、区長も任命されました。ところが、翌年一O月に突如米軍から一方的に立退きを命令されて、他村や謝苅などへの移住が行われまLた。「北谷区」は発足からわずか二年足らずで廃止されました。ラ」のように戦後の北谷村の居住地(宅地)は、米軍基地どのかかわリて、米軍によってその場所が決められたのです。これは、米国政府が沖縄を東南アジアにおける共産主義国からの脅威に対する前線基地、「太平洋のかなめ石」どして半永久的に使用す152 海軍病院太平洋のかなめ石・・アメリカの東アジア戦略における沖縄の重要性を象徴する表現で、「r320コO『30BZE」を日本語に訳したものです。

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