北谷町の自然・歴史・文化
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土地利用戦前の土地利用沖縄県の土地制度は、明治三0年代に行われた土地整理事業(一八九九;一九Oじわワせいピピらせいリじ・2P67「地割制度」土地整理事業の結果、年)まては、首里王府時代ののままでLた。土士t3の面積は大幅な増加をみせます。いちいち数値は挙げませんが、図ーをみるど一九OO年以前ど以後で大きく変化しているこどがわかリます。それは、王府時代の測量技術の不正確さや、地籍不明地などが原因だど思われます。討さなわけんそーやZピ〈べつLょぷん5モ〈かんさん「沖縄県枇山特別処分規則」に基づいて、王府時代の官山が地元へ払い下げられます。その後、一九O六年の私たちの北谷でも同じような土地の動きがみられました[図2を参照]。やはリ、九OO年前後で大幅に増加しています。かんゆ7らところで、土地整理によって土地は官有地みんゅうらど民有地(公有地ど私有地)ゆヲそらに分けられました。さらに民有地は税金を払う必要がある有租地ど税金が免除されるのんそら免租地に区分され、有租地は、田・畑・宅地・山林・原野・池沼・雑種地の地目に分(固有地)類されます。表1は北谷ての民有地の推移を地目別にみたものです。この表から山林が減少して、かわりに畑ど宅地が少Lづっ増加しているこどがわかリます。畑の増加土地利用は糖業の影響だど考、えられています。また、大した変化田は少しは減っていますが、てはありません。ただ、県下の三大美田の一つに数えられた「チャタンタlブックヮ(北谷田圃)」が有名な割には、北谷の田は他の町村よリ少ないのです。図3は、五ヒ谷地割制度・土地整理事業によって廃止されました。近世期に農民が耕す土地を、一年から数十年という年限ごとに割り替える制度のこと。柏山。材木を採るために木を樟えた公用の山林。王府の監督のもと、山林の保護と育成は地元に任せ、王府の需要を充たすと同時に、地元民は建築・薪炭などに必要な材木を許可を受けて伐採することができました。147

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