北谷町の自然・歴史・文化
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くらしと文化-カシチl〔強飯〕aa--二四日か二五日に、新米てカシチl・カッチlど呼ばれこわめLかんのんる強飯をたいて火の神や仏壇、観音などに供え、米の収穫を報告し感謝する行事です。-チナヒチ〔綱引〕-:綱引の勝負の結果て豊作・凶作を占う行事て、村落によって一五日ど二五日前後にわかれます。桑江の綱引は二四日ですが、メーンナナカンナ7ンジ十綱て前綱・中綱・後綱の三本の短い綱を、「ナカカナチ」ど呼ばれる貫木棒て連結Lて一本の長綱にしたものを二本造リ引き合いまLた。独特のL b、L、戦後はこの行事は行われていません。-ウlンナ〔大綱引〕;・・北谷三箇を形成する北谷・玉代勢・伝道が寅年の二四ま日すにo ^--旗日高頭てて--'('f丁太な鼓う、綱7¥ て「ウlンナ」どか「マlルジナ」ど呼ばれてい踊リ等が繰リ出で、近郊から多くの見物人が集い「-フ、まリ盛大に催されます。沖縄戦によってしばらくどだえていまLたが、九七四(昭和四九)年から復活Lています。七月タナパタ・七夕お盆に先祖を案内するために墓掃除をする祖先祭リの行事て、七日に行われます。この日は吉田どLて、洗骨や墓の修理が行われました。また、着物や布団、書物などを虫干ししまLた。-お八五・::一三日から一五日にかけて盛大に行われる祖霊祭リて、「シチグヮチ」ど呼ばれます。一三日は「ウンケl」ど称する祖霊を迎える目、て、仏壇の104 強飯‘・・餅米をセイ口でむした赤飯。北川八口大綱引き洗勢'・墓に葬った死骸を数年後(三1七年)に取り出し、遺骨を洗い清めた後は厨子聾に納めます。一九五0年代に火葬の導入や行政の指導などもあって洗骨は姿を消しました。

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