北谷町の自然・歴史・文化
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先遣隊による村氏の移動受け入れ準備の後に帰郷移動も進み、人々は郷土復興にカを歴史の移り変わり入れました。そのような矢先の一九四八年五月、突然嘉手納飛行場地域への全面立ち入リ禁止が通告されたのです。この立ち入り禁止で嘉手納区ど村役所を結ぶ道路がさえぎられ、桑江・謝苅回リか越来回リによるほかなく、村役所どの往来に四、五時間もかかるありさまで、たいへんな不便を強いられるこどになったのです。これでは嘉手納地区の復興発展はおぼつかないので、むLろ分村して独自の立場て行政運営をすべきだどいう地域住民の世論が起こリ、稲嶺村長は村議会の同意を得て、ハ刀村陳情書を沖縄民政府の志喜屋孝信知事に提出しました。この陳情書は受け入れられ、一九四八年一二月四日付けて嘉手納村の北谷村からの分村が認められ、嘉手納村が誕生しまLた。復興から自立〆¥嘉手納分村後の北谷村では、その後の村民帰村による人口の増加にどもなって、一九四九年二月頃には謝苅区、桃原区どもに三つの区に分かれ、合計六つの行政区どなリまLた。学校などの公共の建物もテント小屋からコンセット(米軍兵舎用のかまぼこ形の波形トタンでてきた建物)に変わリ、住宅もテントやカヤぶさからトタンぶきの丈夫な造リに変わる家が多くなリました。ただこの要は、グロリア台風(一九四九年七月二三日)のような強烈な台風が毎年沖縄本島をおそい、住宅や学校の校舎一などが壊滅的な被害を蒙るこども一度や二度ではありませんでした。そのような中でも村氏はへこたれるこどなく、力を合わせて復旧に努めました。80 沖縄民政府・米軍によって戦後最初に設置された沖縄住民の行政機関で、初代知事には志喜屋孝信氏が選任されました。グロリア台風:一九四九(昭和二四)年七月二三日沖縄本島に襲来した強大な台風で、全島に大蛮な被害を引き起こしました。北谷村でも殆どの建物が被害を受けましたが、現在の北谷町役場付近の謝苅の傾斜地域に建つ住宅はすべて全壊してしまうほどの大被害を被りました。

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