北谷町の自然・歴史・文化
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アメリカ政府は一九四九年に、沖縄統治の基本方針の中て本格的な沖縄基地の建設の意向を打ち出し、軍事施設費どして五千八百万ドルを計上しました。これは、アメリカ政府が沖縄を防止ハ(共産主義の侵入の防止)そのような中、て、の前線基地「太平洋のかなめ石(キーストン・オブ・ザ・パシフィック)」どして長期的に使用する方針を固めたこどによるものですが、中華人民共和国の成立が大きく影響したものど推察されます。中国に中華人民共和国が誕生したのは一九四九年一O月一日のこどですが、その直後の一O月二七日に沖縄の米軍政長官に就任した米国陸軍のジョセフ・R・シーツ少将は、これまで沖縄・宮古・八重山・奄美に分散していた米軍政府を統括して北谷村のキャンプ桑江に琉球軍政府本部を設置しました。このような状況を背景に、長期使用をめざした基地施設の建設が進み、北谷村内のキャンプ桑江には東洋一どいわれる陸軍病院(A7の海軍病院)や軍人家族用宿舎、キャンプズケランにはモータープールや兵舎、本格的な体育館などが建設されました。このラ」どからも基地使用の長期化が感じられました。嘉手納が分村沖縄戦で本島最初の上陸地点どなった北谷村は、戦後も村の中央に広大な嘉手納飛戦後のようす行場を抱え、周辺基地を含めてかなりの面積が軍用地どなり、このことが村民生活はもちろん、村のあらゆる面に大きな影響を及ぼすこどになリました。その最大のものは、北谷村を二つに分けて嘉手納村を新しくつくらなければならなくなったこどです。一九四六年一月一O目、他市町村にかなり遅れて字嘉手納も居住許可地域どなり、かでなきち嘉手納基地町史第六巻グラビア琉球軍政本部a.,米国海軍から沖縄統治を引き継いだ米国陸軍のシーツ少将(琉球列島米国軍政長官)は、奄美、沖縄、宮古、八重山四群島にあった各軍政府を統括し、北谷町桑江に中央軍政府を設け、これを琉球軍政本部と称しました。ジョセフ-R・シーツ少将'一九四九年一O月に琉球列島米国軍政長官に就任した米国陸軍少将。在任中沖縄統治で様々な改革を打ち出し「シーツ善政」と評されましたが、反面基地強化にも積極的だったと言われています。モータープール:米軍基地内の車両集積基地。アメリカ軍用のトラックやジープ、乗用車などの車両を集めて管理している施設で、修理施設や燃料補給施設も備わっています。79

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