北谷町の自然・歴史・文化
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待ちに待った北谷村への住民移動は一九四六年一O月二二日にやっど許可になリま歴史の移り変わりLた。当初は字上勢頭、桃原、越来村山内の一部に限定されていましたが、次々ど許可地が追加され一九四七年二月時点ての住民居住許可地域は、嘉手納飛行場の南部側いhuAねせいLiヲモんちょ7図lに示すような状況てした。当時の稲嶺盛昌村長は、移動許可後直ちt1ら一九四七年二月五日には嘉問良にあった北谷に関しては、せんけんたいに先遣隊を派遣して移動準備に当らせ、村仮役所を村内大毛の先遣隊事務所に移L村氏の帰郷に備えまLた。一九四七年二月二五日、先遣隊の準備の進む中て村氏の帰郷移動が開始され、大多数の村氏は一九四七年中に村内に帰リまLたが、村土の大部分が軍用地どなって田畑もなく、生活の見通しがたたないどころから、帰郷を見合わせる村氏もかなりの数にのぼリました。村民移動が始まった一九四七年二月二五日に、村内に桃原区、謝苅区、嘉手納区の三つの行政区が設置され、それぞれ区長が任命されました。さらに、じゅんさんらょうはLゆっじJ桃原区ど謝苅区に巡査部長派出所を新設士、、-ゅ7LP-四月には配給所(後の売庖)が設置されるなど、同年三月に入っ警日て~~I;北団之谷の委F結便成局、の診4設療j置所r---開一日又ど進み一日)、(ニO日)、村民の生活に必要な施設などが順次どどのえられ、村内にも活気が感じられるようになリました。米軍基地建設のようす一九四八年ま、てには村氏のおよそ七O?Nが帰郷、桃原、謝苅、嘉手納の限られた区域に住まざるを得ず不自由な思いてLたが、郷土に戻った安堵感から人々は徐々に生活のぺlスを取り戻していきました。78 無料配給所稲嶺盛自己:北谷町上勢頭出身で戦後二代目の北谷村長。後に琉球立法院議員を勤めました。審問団e'・主として火災の時の消防活動と災害時の住民の救助活動を目的として組織された団体。

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