北谷町の自然・歴史・文化
101/290

戦後のようす(軍事基地と北谷)収容所から村へ帰る第二次世界大戦終りの日の一九四五(昭和二O)米軍li 「沖沖f縄縄2本諮}島詞Z内年八月一五日、の久ロ収容所から住民代表一二四名を美里村字石川会」の設置について協議させ、その委員一五名を選出させました。この沖縄諮詞会は、(今の石川市)に集めて当初米軍の諮問機関どLて発足Lたのですが、その中に総務部ほか一二の部が置かれて民間の行政機関の役割を果たす組織であリ、後の琉球政府の原型をなすものでLた。LさやこヲLん2つHhuせいほ諮詞会の委員長には志喜屋孝信、幹事長に松岡政保が就任しました。諮詞会発足後、米軍政府は沖縄本島の収容所を中心に一二の市を設置し、これらの市において、一九四五年九月に市会議員選挙および市長選挙が一斉に行われました。このように行政組織も次第に復活し、人々もいくぶん落ち着きを取り戻してきましたが、収容所はやはリ仮住まいでしかなく、人々はいつも故郷のわが家に帰る日を夢見ていました。待望の住民移動が許可されたのは一九四五年一O月三O日のこどでした。前原地区戦後のようすへの移動を皮切りに次々ど実施されましたが、北谷村氏の移動許可はなかなかおりませんでした。それは、米軍基地の中心をなす嘉手から中城村安谷屋(Aワは北中城村)納飛行場が北谷村内にあリ、村の土地のほどんどが軍用地どして米軍が使用Lているためでした。住民移動許可地域図1士山一議屋孝信(一八八四1一九五五)・具志川市宮里出身で、元沖縄県立第二中学校教員。戦後一九四六年四月に米軍により設置された沖縄民政府の初代知事に就任。後に、米軍政府布令で一九五O年に設置された琉球大学の初代学長に就任。松岡政保(一八九七1一九八九)・・金武町金武出身で沖縄民政府初代工務部長。後に第四代琉球政府行政首席に就任。戦後の一二市:昭和二O年米軍が公布した地方行政緊急措置要綱で沖縄諸島に一六市が設置されましたが、沖縄本島には辺土名市、白井等市、瀬嵩市、久志市、古知屋市、宜野座市、漢那市、石川市、前原市、胡差市、知念市、平安座市の一二市が置かれました。77

元のページ  ../index.html#101

このブックを見る