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1北玉小学校(旧国民学校)の学童疎開

更新日:2016年12月1日

ご紹介をいただきました。仲地でございます。
 我が国日本は、昭和12年頃から中国と戦争状態が続いており、さらに昭和16年12月8日からは、アメリカ・イギリスを相手とした太平洋戦争に入ったのですが、昭和18年頃からは戦況は悪くなる一方でありました。
 沖縄から本土への学童の集団疎開は、サイパン島が玉砕された昭和19年7月7日、政府の緊急閣議で決定されたとのことです。次の攻撃目標は沖縄だということでした。「沖縄から本土へ8万人、台湾へ2万人、合計10万人を7月中に引き揚げさせよ。」との閣議決定により、沖縄の学童疎開は始まったとのことであります。
 琉球新報社発行の(沖縄学童たちの疎開)によると、疎開学童の受け入れ先は、宮崎、熊本、大分県の三県で、教師・寮母・家族を含め約6,600人がこの三県へと分散配置されたようでした。学童だけをみると、宮崎県へ約2,600人、熊本県に約2,600人、大分県に340人あまりが配置されたそうです。
 私達北玉小学校(当時の国民学校)の学童疎開は、沖縄にいるより安全だということで、学校や父母のすすめにより、今からちょうど60年の8月21日、新崎先生の引率のもとに暁空丸に乗って出発したのであります。
 学童疎開とはいっても当時4年生の私にとっては、船に乗って本土(やまと)に行ける、そして汽車が見られる、雪が見られる、といったようなまるで修学旅行のような期待感の方が大きかったように思います。皆様もほとんど同様の考えだったのではないかと思います。

一緒に疎開した北玉の生徒は、次の23人でした。

 小学1年生が・・・・・・・・・・1人

 小学2年生が・・・・・・・・・・2人

 小学3年生が・・・・・・・・・・0人

 小学4年生が・・・・・・・・・・5人

 小学5年生が・・・・・・・・・・5人

 小学6年生が・・・・・・・・・・4人

 高等科1年生(中1相当)が・・・3人

 高等科2年生(中2相当)が・・・3人

 私たち北玉小学校の疎開児童が乗った暁空丸(ぎょうくうまる)と一緒の疎開船は「和浦丸(かずうらまる)」と「対馬丸(つしままる)」の3隻でした。
 昨年、平成16年度の講演会の中で、仲本 朝勇氏が、私たち北玉小学校の疎開児童は、当初、「対馬丸」に乗船する予定だったことを知り、改めて60年前私たちは本当に運が良かったのだと知りました。
 不孝にして「対馬丸」は撃沈されてしまったのですが、犠牲者は1,484人、救助された人177人、そのうち学童はたった59人だったとのことです。
 話は変わりますが、私たちが暁空丸に乗船する際、先生からいくつかの注意事項と連絡があったことを今でも思い出せます。

 1.救命具は常時着用すること。

 2.海には何も投げないこと。(みかんの皮等も)

 3.点呼は番号でする。

 4.緊急時は兄弟姉妹手をつないで協力する。行動する。

 5.単身での疎開児童は先生が介助。

以上のことを徹底していたおかげで、航海中の非常事態も乗り切ることができたのだと思います。
 それは「対馬丸」の撃沈後のことです。暁空丸と和浦丸は航行中、アメリカ軍の潜水艦からの攻撃の危険が続く中、到着の前日8月23日の夜にその2隻の船が衝突してしまい、船は大きく揺れ、船上は一時騒然となりました。船が大きく揺れパニック状態の中、兄弟で手をつなぎ海へと飛び込む用意をしながら船の揺れの治まるのをまったものでした。船は幸い航行を続けることができ、翌24日、無事に長崎港につくことが出来たのです。
 翌日には早速、疎開地である熊本県葦北群日奈久町(あしきたぐんひなぐまち)、現在の八代市日奈久町(やつしろしひなぐまち)に配置されることになり、私達北玉小学校を始め、15校940人の学童が、日奈久町内の旅館へと配置されました。
 日奈久の町は温泉保養地ですばらしいところであり、沖縄から行った疎開児童にとって施設は満足できるものだったと思います。
 沖縄から疎開したほかの学校の児童もみんな、それぞれ町内の旅館に配置されました。日奈久町の小学校々歌からも町の様子がわかるかと思いますので、一番だけ紹介します。

 前には広き海を抱き (※海・・・八代海、有明海、天草島)

 後に高き山を負ひ

 こんこんとしていで湯わき

 理想の里よ わが日奈久

 疎開先では、地元の児童と一緒に授業はせず、2部に分かれて授業が行われたために、地元の児童との交流はほとんどありませんでした(地元約1,000名)。今でもよく覚えておりますが、私達北玉小学校の宿舎は赤星旅館というところで、日奈久町の南側で、日奈久小学校までの登校時間は20分くらいだったと記憶しております。
 そういう状況の中で、疎開生活と2学期の学校生活は進んでいくのですが、出身校ごとに集団での登下校、登校すると毎日のように朝礼が行われ、点呼・宮城遥拝(きゅうじょうようはい)()・「海ゆかば」斉唱(せいしょう)が日課となっていました。(宮城遥拝とは、天皇陛下の住んでいる皇居に向かい毎朝、最敬礼をすることです。)2ヶ月を過ぎたあたり、10月頃からは、登校途中毎日のように空襲警報や警戒警報のサイレンが鳴り出すようになり、安全な場所を求めて山手へと避難する日々が続きました。 避難した山には、みかんやびわの木などもあり、ひもじさの足しになることから、いつしかみかん欲しさの為、警報を期待するようになっていました。

 日奈久での生活も長くは続かず、毎日のように警報が出されるようになり、又、八代市という大きな町の近くにあるため危険だということで、安全な場所に再疎開することになりました。
 疎開先は同じく熊本県内、八代群種山村(現在の東陽村)大字小浦の福音寺というお寺で、寺から片道2キロほど山道を登った所にある種山小学校の内の木場分校へと転校しました。分校は、1・2年生、3・4年生、5・6年生の3クラスで学年毎に交互に授業(一方は自習)をしていました。地元の児童も私達疎開児童も一緒に勉強しました。
 しかし、ここでも地元の子供たちとの交流の記憶はほとんどありませんでした。この分校の校舎には使用していない古い校舎があり、後日その古い校舎も私達疎開児童の宿舎として利用したこともありました。古い校舎といえば、寒い、つらいことが思い出されます。昭和21年の1月か2月頃かと思いますが、その校舎では、近くの滝つぼの上流から孟宗竹という大きな竹で飲料水を引いていたのですが、その水が凍ってしまい、氷点下の厳しい寒さの中で、氷を取り除く作業は、寒いか、痛いかの区別もつかない程辛かった事が、今でも忘れる事ができません。
 また、寺での食事はたいそう粗末なもので、毎食のように雑炊でした。雑炊とはいっても、お碗に米粒が数えられる位しか入っていないようなもので、疎開者は、大人も子供もほとんどの人が、食べ物のことしか考えられないような、本当に貧しくて厳しい生活の連続でした。通学路の近くには小さな滝つぼがあり、その水を利用した大きな米つきの臼があり、人がいなかったので、学校の帰り道、良くないこととは知りながらも、米ぬか交じりの米を、時々無断で取って食べた事を思い出します。

放課後、寺に帰ってからは、毎日のように野山に食べ物を探しに出かけ、収穫後の渋柿の熟したもの、栗の実、山もも、山菜のミツバ、ノビル等を、野山で食べたり、寺へ食材として持ち帰ったりもしましたが、それでもなかなか飢えをしのぐことは出来ませんでした。
疎開生活を思い出して言えることは、ひもじい(ヤーサン)・寒い(ヒーサン)・寂しい(シカラーサン)と言うこと、本当にそのことだけが強く印象に残っています。

 昭和20年8月15日、私達北玉小学校の学童疎開者は、終戦を種山村で迎えました。戦争は終わったとはいえ、生活は一向に良くならない状況が続き、近隣の農家では、働き手を戦争で取られたこともあり、人手不足の農家も多く、6年を終了した疎開児童を子守や家事手伝いや働き手として引き取り、家族同様にかわいがられていた疎開児童もかなりいたと記憶しています。しばらくたっても沖縄に帰れる状況ではなく、疎開児童の何人かは戦争前に本土の他府県に働きに行っていた身内や親戚の方々に引き取られていき、疎開児童もだんだんと少なくなっていきました。
 昭和21年の5月か6月、私も栄養失調でやせ細っている頃、疎開先に兵庫県の工場で働いていた姉が来て、疎開をしていた3人の姉弟の中で、私が一番やせ細っていたこともあり、一緒に疎開をした姉と弟を残し、私だけを兵庫県に連れて行き、上の姉と叔母とのもとで元気を回復し、同年10月頃、無事沖縄に引き揚げることが出来ました。本土で沖縄の情報・家族の状況は何も知らないなかでも、沖縄に帰りたい、故郷に帰りたい、との一心でした。

 那覇の港に着き、久場崎の収容所に着くまで、やっと帰れたんだという気持ちと、嬉しさと懐かしさで、涙が止まらなかったことが思い出されます。
 当時の越来村(沖縄市)嘉間良に、北谷村民の役場業務として、村民の安否や所在場所などの案内を行う連絡所、案内所のような所があって、そこで、家族の安否や所在場所を教えてもらい、2年2ヶ月ぶりに、やっと家族と再会することができました。後で聞いた話ですが、父は当時警察官(CP)をしており、引揚者の船の入港を待って毎日のように、もう一つの収容所インヌミと私のいた久場崎の収容所を巡回していたそうですが、運悪くすれ違っていたようで、父との再会は家族の中では一番最後になりました。

 学童疎開とは何だったのかと考えるとき、寒く、ひもじく、寂しかっただけではすまされないが、疎開生活は貴重な体験であり、戦後の私たちの生き方の糧となったのだと思います。
 あの同じ日に疎開船に乗った「対馬丸」の仲間の皆様や、戦争で亡くなられた方々のことを考えるとき、二度とあのような愚かな戦争をおこしてはならないと思います。恒久平和実現のため、一人一人が努力を続けて行きましょう。

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沖縄県中頭郡北谷町字桑江226番地
電話:098-936-1234
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