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1私の見た戦前・戦後の北谷

更新日:2016年12月1日

皆さんおはようございます。ご紹介を受けました伊集 守明です。

 10月22日のすばらしい平和祈念祭に、70代の私に戦前、戦後のことを話してくれないかということで、何回も足を運んでいただきました。私が体験したことについて短い時間ではありますけれども、しばらくの間私のほうから去る第2次世界大戦の10.10空襲を中心に話を申し上げたいと思います。

 戦前は北谷前(チャタンヌメー)から始まりまして、私はすぐ方言交じりになりますのでご了承いただきたいと思います。

 そして北谷ですね、そして伝道(デンドウ)、玉代勢(タメーシー)、そして白比川、北谷トンネルがあって、それから桑江前(クェーヌメー)ですね、それから桑江中(クエーヌナカ)、桑江の部落、桑江後(クエーヌクシ)それから伊礼部落、平安山(ハンザン)部落、それから浜川の本部落、そして北谷村役場、公益質屋(1)などがありました。それからグシクンニー(集落の南西方向にあった岩山)の部落のほうですけど、ここには監視哨(2)がありました。戦時大戦下、十何名かの徴兵がありました。

 それから平安山(ハンザン)部落の上の方、私の部落ですが、そこには学校(3)があり役場があり、村の中心でありますので県道も南北に走っていました。このようにいろいろな部落がありました。

 それから平安山ヌ上(ハンザンヌウイー)部落ですね、砂辺の部落、喜友名小(チュンナーグワ)ヤードゥイ(4)そして下勢頭(シチャシードゥ)、上勢頭(ウィシードゥ)というふうに部落があったわけです。

 戦前のまちは、裕福な純農村といいましょうか、北谷ターブックヮ(5)で米を作り、各字においても農業が盛んで、サトウキビを中心とする畑などもかなりあったわけです。ですから、10.10空襲の昭和19年を境に、自然のすばらしい我が町が壊滅したという現実を体験しまして、非常に心痛むところであります。

 昭和20年4月1日に米軍が砂辺から上陸し、艦砲射撃を受けました。それ以降は、空からは艦載機が飛んで艦砲が来るというふうな事態で、村内の至る所で地獄のようなありさまがあちらこちらで見受けられました。

 私はちょうどその時は、農林学校の学徒として召集されていました。県下の各中学校、師範学校一中、二中、三中、開南中学校、女学校は一高女、二高女、三高女、首里高等女学校、積徳(セキトク)高等女学校、昭和高等女学校、中学校においては学徒動員、女学校においては従軍看護婦、友軍協力というかたちで、ほとんどの学校で戦時軍事教育(6)が強化されていました。

 去る大戦では、私の友人も同級生も予科練や陸軍の防衛隊等、悲惨な戦死を遂げて悲しく心が痛むところであります。

 そして、その後学徒動員がありましてからは、最初に陣地構築、ほんとに兵隊同様のことをさせられました。中学生も同級生も同じですが、最初私達は、座喜味城にある陸軍の高射砲隊を構築しました。それと並行して北飛行場、今の読谷飛行場ですね、飛行場には我が村からも大勢の方々が飛行場構築に励んでいました。老いも若きもそういうことで朝から夕方まで働いていました。私も学徒動員ということで座喜味城構築から北飛行場、中飛行場。

 あとは、あとでお話しますけど、海軍が誇っていた要塞砲がありましたが、そこには女子挺身隊が何名かおりました。武器運びなど諸々のことをさせられましたが、ほとんどの方が戦死され生き残った方は、現在喜友名 トヨさんただ1名だけです。女子挺身隊員のなかには私の同級生も何人かいましたが、戦死してしまいました。

 そういうことで、10.10空襲のときは、多分午前6時半前後だと思いますけれども、読谷飛行場から始まりまして、横切って、中飛行場(7)、那覇に行って那覇飛行場というふうに一日中空襲されまして、各家の防空壕は強制的に掘りましたので、各自そこに非難しておりました。各字も山のほうに防空壕を掘らされておりました。

 10.10空襲のその日、私の家の壕には、空襲のため軽便鉄道の汽車が止まってしまったので、汽車に乗っていた乗客たちが夕方まで、何名か入っていました。

 北谷小学校には、石部隊が配置されていました。私の家の東には有銘さんという大きな家がありました。そこには将校・軍医が3名ほどおりました。将校は、最初演習ではないかと言っていたが途中から空襲に気がついて、配置につけということになりました。私は家の東側のウガンヌシーというところの岩の割れ目のところに隠れておりました。すごい空襲にたまらなさを感じておりました。

 その当日機銃掃射で一人亡くなりましたが、そのときからは葬式どころではありませんでした。荼毘(だび)も残った方々で行い、泣く泣く埋めたということでありました。

 戦前あった校区ごとの婦人会が国防婦人会に変わり、消防団が警防団に変わり、すべての残った人々が、奉仕作業やなんらかの形で協力させられていました。

 また、各校区ごとにわら人形を作り、竹やり訓練をしておりました。青年学校においては各学校に下士官が配置され、北谷校には松田伍長が配されて、青年学生の実地訓練を指導していました。

 私たち農林学校の生徒は、学徒隊ということで軍事訓練として、読谷の渡具知の浜で食料の荷揚げや運搬などをしておりました。特に渡久地の浜では石部隊がおりまして、食料の輸送、運搬の協力など分担してやったわけでございます。

 嘉手納には、県立農林学校があり、また青年師範学校が有りました。

 そして私達生徒は、嘉手納の製糖工場の応援もさせられました。嘉手納製糖工場で作られる砂糖は何のために使われるかと聞いたら、大砲の弾に使うのだと社長の松岡 政保先生がおっしゃっていました。

 下勢頭にも製糖工場がありましたし、野国にもありましたが、友軍が上陸してからは、全部に軍が入りまして、石部隊が北谷小学校にも入りまして、子供たちは近所の大きな家で勉強するというような状況でした。

 私たち農林学校の生徒も鉄血勤皇隊として徴兵されました。自分の先輩までは徴兵検査がありましたが、私たちに徴兵検査はなくすぐ入隊というかたちになりました。

 徴兵検査は農林学校でありましたので、その状況はよく見てわかりますので、軍隊に行って、あれだけの戦争をしたんだなーと思うと、ほんとに心が痛みました。

 私たち農林学校での銃練習では、生徒にも三発銃がありまして使う弾は、空砲しかありませんでした。それは帯剣も使えるようになっていて、2名に1丁というふうに支給されていました。靴も支給されましたが、足のサイズなど関係なく自分の足に合わない大きな靴を履いておりました。

 指導教官については、元村大尉でありましたが本土に配置換えになりまして、尚少尉が配属将校で来たわけですが、学校も午後からはほとんど軍事訓練で、全てが兵隊と同じようにやらされました。

 昭和20年3月の27・28日頃だと思うのですが、陸軍二等兵として私たちが、家族に面会して来いと返された時に空襲にあいました。それから毎日爆撃があって、うちの部落もほとんど消滅してしまいました。

 当時は、衣料も食料も全部配給制でした。うちの部落は60軒ぐらいあり、人口が210名ぐらいだったと思うのですが、タバコの店が2軒ありました。

 居間の作りが4間、6間の店があり、そして平安山、浜川、下勢には品物も豊富に有りました。

 当時は、配給制でありますけれど、タバコは専売で近くの新里商店、金城商店が扱っていました。近くにある他の店では販売していませんでした。

 朝早くから並んでタバコを買うような状況でした。タバコの値段はキザミで5銭5厘でした。豆腐の値段は5銭でした。当時の先生の給料はたぶん25円から40円、あるいは前後だったと記憶しています。そういった経済状況で日常の各家庭では、現金払いで買うというところはほとんどなかったんではないかなーと思います。通帳式で払い帳を使って何を買ったかを通帳にためておいて、牛を売った・豚を売ったという場合に清算するというかたちでした。日常において、現金でものを買うということはなかったと思います。帳面も店に預けて物を買うときにその帳面に書き込むというような状況でした。

 私は戦後羽地村から久志、そして宜野座村へと移り、米兵に捕まりました。そして弁務官事務所に連れて行かれました。そこには、南部からの兵隊や亡くなった人たちが毎日のように運ばれてきました。若い沖縄の女性たちが、その人たちの看護にあたっておりました。

 戦後の北谷へは、まず先遣隊が入りました。今の上勢区、石川 重喜さんのところですが標準家屋(8)を建設していきました。

 そして、羽地から久志・宜野座・石川から村民が移動してきました。今もお元気でいらっしゃる稲嶺 盛光さんが北部より村民をトラックで移動していたのを覚えています。私の場合は、助手として嘉手納村民を移動する手伝いをしていました。

 桃原時代のカバヤー(テント小屋)にいたときは、嘉手納の方々は遅く出勤して早く帰ることがありましたが、それには理由がありました。ちょうど航空隊の方を横目に行きますがね、そこは定刻になると通れなくなる。そういう交通の利便性の問題で早く帰らなければならないといっておりました。

 その当時の学校においては、当時の先生方も大変ご苦労なさったんじゃないかと思います。学校校舎建設には、テントや茅葺(かやぶ)き、コンセットが使われ、その後に新しい瓦葺の校舎が、北谷中学校、小学校などにできました。

 1950年の3月頃だったと思いますが、役場は引っ越すことになりました。引越先は民間に開放された元軍用地(9)でした。当初、庁舎は狭い建物が一棟しかなく、そこで職員全員30人が仕事をしていて、村議会があるときなどは、狭い庁舎の真ん中に机を置いて話し合いをしておりました。

 その頃から救援物資の配給がはじまりました。配給は必ずお昼の12時前でした。役場の職員は、昼休みを取る暇もなく救援物資(10)を配っていました。

 当時は、役場へ行くための交通手段が乏しく不便でした。1953年ごろ各バス会社にバスの運行をお願いしたら、青バスが1ヶ月ほど運行したと思います。謝苅線(11)が、あんまり起伏がすごいものですから、こちらからはバスは通せないということで、ほとんどのバス会社に断られました。そんな中最終的には、以前の昭和バス、現在の琉球バスが引き受けてくれました。

 当時の昭和バスは、今で言うと中型といいますか50名乗りほどの大きさでした。昭和バスについて私の印象に残っているのは、最終のバスの運転手はわざわざ降りてきて、役場の職員に「もう最終ですよ、桃原の人は残っていませんか?謝苅の人は残っていませんか?」とわざわざ声をかけてくれたことです。それ以前は謝苅タクシーとか三輪車で山里のあたりまで村民を運んでおりました。

 なんといっても今日ある北谷町があるのは、歴代の村長さん、区長さん、職員の皆さん、村民が一体となって素晴らしい精神力でもって、今発展している北谷町があるわけです。

 次に、女子挺身隊(じょしていしんたい)について話をしていきたいと思います。

 挺身隊は、海軍・陸軍の両方にあったんですが、北谷の喜友名小ヤードゥイには海軍の一個小隊がおりまして、海軍の女子挺身隊員が13名、陸軍の女子挺身隊員が6名で、二十歳前後の若い女性たちが隊員でした。私の同級生にも女子挺身隊(12)がおりました。名前は比嘉 トシさん、比嘉 ナエさんといいました。

 女子挺身隊員は、衛生兵のようなこともさせられていました。『女子挺身隊の碑』は、現在の上勢区に建てられてありましたが、しばらくして県の管理する墓苑に移動できないかとの話があり、援護課の支援をうけながら、遺族の方々と同行し、摩文仁にある国立墓苑に移しました。

 私たちの若い時代には、戦争があったために青春というのがなかったなーという感じがしてなりません。

 戦争というものは、どうしても住民を巻き込んでしまいますので、昨今起こっているアメリカのテロ事件など、テレビの映像を見ますとこの世の争いごとが早く解決してほしいと思っております。

 次に『平和の塔』について話してみたいと思います。

『平和の塔』は渡慶次 賀善村長の時に実行委員会を作りまして、村議会などの協力のもと旧役場の近くに建設されました。塔建設当時には、遺族会初代会長は上間 至清先生で、目取真 興吉さん、ほか瑞慶覧 キヨさんなどが主な実行委員で、その他多くの役員がおりました。ハワイや村内からも寄付をいただいて平和の塔ができたわけです。

 その後、平成7年に町の事業(戦後50周年記念事業)として平和の塔が再整備され、現在あれだけの戦没者が刻銘されるに至ったわけです。

 平和の塔建設の建設委員としては、当時の渡慶次 賀善村長をはじめ、真栄城 兼良議会議長、木村副議長、上間 至清さん、村の遺族会会長の瑞慶覧 キヨさん、遺族会副会長の平川 殿松さんなどが活躍されました。

 そして発起人としては高宮城 実盛さん、島袋 善吉さん、高江洲 義徳さん、島袋 善正さん、仲井真 盛昌さん、崎原 盛永さん、比嘉 春子さん、喜友名 トヨさん、仲宗根 トシさんなどで、設計が永田設計の盛重さん、施工が浜元 盛徳さん。そのほかにもたくさんの人々の協力もあり、すばらしい塔が完成されました。最近では、1995年に50周年記念事業としてきれいに整備されております。

 この平和の塔に刻銘されている、軍人・軍属含め2千数百人の犠牲者のためにも地球から戦争を無くし、我が北谷町から全世界に向け、恒久平和のメッセージを発信していけるように町民ともどもがんばっていきたいと思います。

 最後になるんですが、特攻艇(13)についてお話しようと思います。

 白比川には特攻艇基地がありました。今も壕は残っておりますが、たぶんあれは14・5ぐらいだったと思うのですが、壕から川へ軌道を引いて、100キロ~120キロの爆弾を積んだ一人乗りのボート小型艇を、敵の艦隊に高速で特攻させるというものでしたが、突っ込んでいっても敵の被害は微々たるものだったと思います。

 最後に北谷トンネルの琉歌がありますので、ちょっとご披露したいと思います。

 これは平成8年にいただいたんですが、これに曲をつけてほしいということだったのですが、のびのびになっていまして。これをデンサー節にのせてやりますので聞いてください。(歌う)(拍手)

1 ンカシナニタチュル(昔名に立) 北谷トンネルヤ

 ナマヌワカムヌヌ(今のわかものの) アシビドゥクル(遊び所)

2 アンチュラサアタル(あんなに美しかった) 北谷トンネルヤ

 イクサユヌアトヤ(戦後) カタチネーラン(残っていない)

3 昔グトゥヤシガ(むかしのことだけど) ヌチヤナママディン(思う事や)

 北谷トンネルヤ ワシリグリシャ(忘れられない)

 これからも、北谷町民の皆がこぞってこういう平和のメッセージを発信するイベントに参加し、私たちの子や孫、そして先祖代々から受け継いだ大切な北谷が、二度と戦争に巻き込まれないよう努力していきましょう。

 北谷町の限りない発展と町民の平和な生活を祈念しつつ、たいへんとりとめのない話ではありましたが、私の体験発表とさせていただきます。

 ありがとうございました。

補注=北谷町史より

(1) 公益質屋

 大正末期から昭和初期にかけて、市町村または公益法人によって設立された庶民金融機関であった。

(2) 監視哨

 戦前平安山ヌ上[ハンザンヌイー]の岩山に設置された民間防空機関名正式名称は『二十一番嘉手納監視哨』と称した。北谷村役場後方、軽便鉄道路線の上方に位置していた。嘉手納看視哨の哨長・副哨長には村内の在郷軍人が村の委託を受けてあたり哨員は、はじめは役場職員が兼任していたが、のちに青年学校生徒が動員された。

(3) 学校

 北谷尋常高等小学校

(4) ヤードゥイ

 ヤドリとは屋取とも書き、「宿る」から発生した語とされている。首里・那覇等の町方の貧乏氏族が生活の糧を求めて田舎間切りに下り、農村の一角に暫し移住する。

(5) ターブックヮ

 肥沃で美しい水田として知られ、北谷は米の産地として県下でも有名であった。

(6) 戦時軍事教育

 1945年(昭和20)3月23日には、小学校卒業以上の男65歳以下、女45歳以下の県民は、国民義勇隊を組織することが閣議決定された。沖縄では県下全ての中等学校・女学校・青年学校の生徒が「学徒隊」として動員され、男子は『鉄血勤皇隊』女子は『看護隊』として広報業務を超えて先頭部隊として行動させられ、その多くは戦場で悲惨な最期を遂げた。

(7) 中飛行場

 嘉手納飛行場

(8) 標準家屋

 戦火によって焦土と化した故郷に住む家はなく、これら人々にとって緊急を要したのは住宅建設であった。そこで沖縄諮詢会は工務部を設け、組立式住宅いわゆる「標準家屋」を考案して大量生産を図り、市町村を通じて無償給付を行った。この標準家屋はトゥーバイフォー(厚さ2インチ幅四インチの角材)で骨組みした面積6.66坪の家屋で、屋根はテントか茅葺き、壁はテント張りで床板は米軍の梱包用箱板の代用品であった。設計者は仲座 久雄(初代沖縄建築士会長)といわれる。北谷村で建設された標準家屋の数は不明であるが、当時の村民世帯数のはるか及ばず、移動当初は親戚などが同一家屋に同居するという状況であった。その後自力で建築資材を調達して地域の人たちの共同作業によって住宅建設を進め、同居生活の解消に努力したが住宅難は戦後かなり遅い時期まで続いた。

(9) 元軍用地

 現在の平和の塔の前あたり(北谷町字吉原402番地1)役場は、民政府の補助を受けて、木造瓦葺庁舎が建設されることになり、謝苅と桃原の中間に当たる謝苅一区に敷地を決定し、4月に桃原一区から移転した。

(10) 救援物資

 救援物資=第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けた沖縄住民に対し、海外在留の沖縄県出身移民が、郷土の再建という共通の血縁的義務と民族的使命を痛感して救援に立ち上がり、大戦直後の物資不足に悩む米軍占領下の沖縄に多くの援助物資を送った一連の運動を戦災沖縄救助運動(ララ物資=アジア救済連盟<Licensed Agencies for Relief in Asia>通称ララ、キリスト教会世界奉仕団など十団体)という。救助運動の期間は各国により相違するが、1945年にアメリカ合衆国において開始されてから1949年頃までの5年間が盛んであり、その後沖縄復興への援助などとして1951年ごろまで継続される。沖縄への援助物資は現地の必要とする衣類や寝具類(蚊帳など)・食料・種子油・粉ミルク・石鹸・学用品(ノート・鉛筆・白墨)など)・運動用具(野球・ソフトボール・庭球など)・印刷用原紙・同インク・ピアノ・オルガン・ミシン・工作用具・理科実験用具・書籍(辞典など)・玩具・靴・医薬品(サントニンなど)・漁具・乳山羊・豚・豚疫予防ワクチンなどであった。

(11) 謝苅線

 北谷村民の待望久しかった24号線謝苅経由のバスが1953年12月1日に開通した。これは昭和バス(現在の琉球バス)の謝苅線で、那覇から24号線⇔コザ知花を経由してカデナを結ぶ路線であるが、一部は謝苅入り口とカデナ間を折り返し運行した。この路線の開通により、那覇市やコザ市への往来や通勤通学など交通の利便さが増し、村民の日常生活に大変役立った。謝苅線バス運行以前に、三輪自動車が桃原大毛と島袋、山里間を往復運行していた。しかし謝苅線開通後は乗客が急激に減少し、運行取り止めとなった。その後また1960年頃から桃原大毛と知花間に青バス(現在の琉球バス)の運行が開始されたが、それもマイカーブームに押され、1965年ごろ運行取り止めとなった。

(12)女子挺身隊員

 中部西海岸付近に配備していた賀谷支隊をはじめ各隊は兵力の不足から沖縄戦突入直前から多くの少年少女を含む民間人を恣意的に徴用し、義勇隊・女子挺身隊・女子炊事班・女子救護班という名で、地雷敷設・弾薬運搬・戦闘部隊への食事運搬負傷者の運搬など、後方業務を越えた戦線業務に従事させていた。平安山の「海軍十一砲台」には喜友名小ヤードゥイから14名の女子青年が3月24,5日頃徴用され、海軍女子挺身隊として編成され、軍服も支給されて救護に当たった。また、越来村山内に布陣した「機関銃中隊」には3月27・8日の夜山内の集団壕に避難していた平安山ヌ上、下勢頭(シチャーシドゥ)の女子青年6名が、兵隊同様に俸給も出すし、死んだら靖国神社に祀るといわれ女子挺身隊に編成され、戦車破壊用の急造爆雷や弾薬運搬・炊事に従事させられた。20名のうち海軍挺身隊2名、陸軍挺身隊1名の3名だけが負傷しながらも生き残った。戦後、遺族の手で集骨された遺骨を納めた『護国女子挺身隊之碑』が建立された。遺骨はその後に「国立戦没者墓苑」に移された。

(13) 特攻艇

 広島県で編成された「海上挺身基地第29大隊(暁<球>15066・大隊長中本大尉)」は、1944年11月7日に沖縄本島に上陸し、同年12月15日に北谷村に進駐し、白比川沿いの特攻機地建設に携わった。北玉国民学校や民家に分宿した部隊には既往召兵が大かったので、住民からは「タンメー(おじいさん)部隊」と称された。このとき北谷村内からも約200名の防衛隊が召集されて同隊に編入されている。

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